aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

専門外分野の語学教育的拡張

芸術を語れる人になりたい!みたいな願望があった。

といっても絵画にはあまり興味がないし、音楽もすきかと言われればすきだが、別に詳しくもない。J-POPのほかには、中学以来、クラシックやジャズを聴くのはまあまあすきだが、うんちく的な知識はほとんどないので、詳しいことも言えない。文学はと言えば、高校時代は暇さえあれば小説、当時の感覚では浴びるほど読んだ気になっていたのだが、大学に入って以来ほとんど小説を読んでいない。いわゆる純文学とか言われるようなものや、古典文学とか言われる奴はあまり好みじゃないのもあってほとんど読んでいない。まあこれは常識としていかんと思うけど。

これでは芸術とはまったく遠い、典型的なつまらない学生じゃないの、まさにその通りなのだが、まあじつは現代デザインとかいうものには少しだけ関心があって、いくつか本を読んだ。現代建築とか呼ばれるものにも多少の興味がある。色彩理論にも多少の心得がある。でもまあ、デザインや建築にものすごく興味があって、ものすごく「語れる」かといわれれば、そんなことはまったくない。

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ボクにとって、何か一つのことを猛烈に「語れる」人は憧れだった。「語れる」ことがだいじなのだ。でも最近は、自分が語るんじゃなくて、むしろ誰かが猛烈に語るのを聞く方がすきなのではないかという気がしてきた。ただ、聴く側にも多少の知識が必要だ。まあ語る側にしてみたらそんなことどうでもいいんだろうけど、聴く側としては、まったく知らないし興味もないと、つまらんのではないか?

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「語られる」芸術として、典型的なのは、やっぱり映画なんじゃないかと思う。なんで映画なんだろうなあと思うこともあるけど。映画を語ることができるということが一つのステータスである時代なんて、とうの昔に過ぎ去っただろうか。そんなステータスに、それでもなぜかあこがれるわけだが、ボクとしては、誰かが映画を語るのを、相槌を打ちながらただ聞いていたい。

別に芸術に限った話ではないのだけど、世の中には猛烈に映画が好きな人がいて、彼らの情熱や知識量はすばらしいと思う。正直ボクには芸術を見て面白い感想を言える才能はほとんどないらしく、映画を見ても「面白かった!」「死にたくなった」くらいしか出ないんだけど、映画愛好家の方々は思いもしない方向からいろいろなことを言ってくる。そんなとこから映画を見てるのか、そんなことを感じ取れるのか、と驚きの連続。才能だよなと思っちゃう。

翻ってボク自身が映画をどのくらい好きなのかというと、まあ人並みには好きだろうと思うくらい。小さいころから映画を見に連れて行ってもらう機会もあったので、映画館に映画を見にいくことに煩わしさや抵抗感はない。ただ別に年間何本!とか言うほど映画を見ることがすきなわけではない。面白そうな映画が出たら、見に行こうかなという感じである。まあだいたい見に行く映画のパターンは決まっていて、特定の俳優か、特定のスタジオか、あるいはヒーローものか、まあこんなものである。だいたい海外のヒーローものは見に行く。昔は特撮怪獣ものも見に連れて行ってもらってた。ゴジラとか。

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映画を見たり、語ることよりも、映画がものすごく好きな人の話を聞く方がすきなのだと気づいてからは、むしろどんなことをすればさらに面白く話を聞けるのか、ということを重視するようになった。本末転倒かもしれないが、人の話を楽しく聞くために、自分でも映画を見たり、その映画についての情報を集めたりする。映画の用語を勉強したり、撮影技法や映画の理論を勉強したりする。たぶんこれは、こういうものを語学教育のようにとらえてるということなんだと思う。つまり、映画自体を知りたいんじゃなくて、映画について語る人がどんなことを話しているのかを理解したいがために『言葉」を勉強するのだ。専門用語一つ一つは英単語みたいなものだ。コミュニケーションの手段が知識であり、それ自体の探求はあまり重要ではない、みたいな。大学の文学部で開講している映画理論の講義はとてもすきで、実は常連なのだが、やはり先生は相当のシネフィルなんだろうな。でも.この講義は結構人気らしいしぼくみたいな人は案外多いのかもしれないと思う。

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こういう風な感覚で学問を学ぶことがあってもいいと思う。自分の専攻はしっかり勉強しないといけないけれども、自分の専門とはちょっと離れた分野で、でもむしろその分野を専門にしているひとたちと話せるようになるために勉強する。英語もコミュニケーションするための手段の一つなのであって、もちろん英語そのものを理解することを目的にしている人もいるかもしれないけど、大多数の人にとっては英語は道具なのだ。化学を専門として勉強するひと(たとえばぼくとか)が、気象学を勉強するとき、さしあたり目標とするのは気象学の本質ではなくて、気象学者が何を話しているかを理解し、気象学者と同じ言葉で話せることだ。

それって手段の自己目的化なのでは?たしかに。ただ、人間はコミュニケーションを目的化することはある意味自然な状態なのではないかという気もする。だって僕らは何の目的もなくとも、他者とコミュニケートするではないか。ただいろんな人の話を聞きたいという理由で、学問を学ぶこともある意味、楽しいかもしれないよね、もちろん大いに邪道かもしれないけど。