aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

ネット上でのピアレビューとその限界

STAP細胞のニュースが国内を駆け抜けてからしばらくして、今度はネット上でこの論文への検討を試みる動きが始まった。正確に言えばこれは正しくない。なぜならある論文が雑誌上で発表されれば、自動的にその論文は次のステージに立つことになるからだ。すなわち、同業者の多数の鋭い目に晒される。これが科学の土俵に立つということだ。
 
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科学論文の「品質管理」の手法には大きく二つのステージがある。
 
第一段階は投稿論文誌に掲載されるかどうかを決める「査読」と呼ばれる過程だ。一般に科学論文には新規性が求められる。つまり、基本的にどの論文も世界で初めての成果を報告するためのものだ。ということは、その結果について世界で1番詳しいのはその論文の書き手ということになる。それなら、どうやってその論文が「まとも」だと判断するのか。通常、査読は同じ、または近接の領域を専門とする研究者によって行われる。彼らはレフェリーと呼ばれ、論文がその雑誌の掲載に適うかどうかを判断する。そのままでは基準を満たさないと判断された論文はレフェリーからのコメントをつけて書き手に差し戻される。普通はひとつの論文につき、2人から3人のレフェリーがつく。書き手はコメントを元に手直しをして再投稿する。これで掲載が許されればその論文はめでたくアクセプトされたという。それでもアクセプトが叶わずリジェクトされると、普通書き手は別の論文誌へと投稿先を変える。
 
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論文誌には「格」があるらしい。格の高い論文誌にアクセプトされることはそれ自体が書き手の名誉であり、「よい」業績になる。職業研究者が定期的に評価を受ける現代では、研究者の業績は格の高い論文誌に掲載された自身の査読済み論文の数によって評価されることもあるようだ。だから研究者は大概、少しでも格の高い論文誌に投稿する。
 
格の高い論文誌の代表格がネイチャーとサイエンスとされているらしい。このふたつは自然科学系の論文誌で最も権威のあるとされるもののうちのいくつかに入る。もちろん、格が高い論文誌ほど掲載されるのは難しく、査読も厳しくなるが、しかしながらそれは必ずしも掲載された論文が正しいことを保証するものではない。論文誌もまた商業誌なので、その権威は守りつつも、よりインパクトの大きい研究が載りやすい傾向があるという話もある。
 
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今回、STAP細胞の生成に成功したとする論文がネイチャーに掲載された。「一流紙」に掲載されたことはまず大きな意味を持つ。内容が内容だけに、ネイチャーに掲載が許可されたということはある程度の第三者的な確かさが保証された結果であると一次的にはみなされるからだ。ここまでが第一ステージ。
 
第二ステージは掲載後すぐに始まる。つまり、その論文を読んだ世界中の研究者からの科学的な検討の対象になる。画期的とされる内容の論文であるほど、多くの研究者の目にとまり、検討され、追証が試みられる。新たな研究のために参考にされることになる。この過程はほとんど自発的に行われ、論文中に何か不都合があれば、当然厳しく指摘される。万が一虚偽の結果や捏造があれば、この過程で明らかにされることになる。有益な結果、その後の研究の契機となるような論文であれば、後発の研究論文に引用される。ある論文それ自体の「価値」を測る方法は様々だが、ひとつの素朴な指標は被引用数で、単純に引用された数が多ければ多いほど、高い影響力を持った論文とされることになる。
 
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さて、STAP細胞の論文はいま第二ステージに立っている。大きな話題になった論文だから、当然同業者からの目も厳しい。嫌疑のかかる箇所が指摘されることはむしろ通常の科学的営為である。ただし、これは普通は学問的な場で行われることである。つまり、論文誌上、或いは学術的な場などで行われることだ。この場合、論争が繰り広げられることがあっても、それは同業者間での話になる。
 
しかし、最近では論文誌はオンラインで論文を配信していて、契約している人ならだれでもネット上で世界中の論文を読むことができる。そしてまた、批判者自身も情報を発信することが比較的容易にできる。たとえばある批判者がネット上で批判的検討を公開すると、それは同業者の間での話ではなくなり、同業者以外にも論争が公開されることになる。
 
これには様々な利点がある。まず、ネット上で公開することで迅速な検討が可能になる。また、狭い同業者集団以外の研究者の目に止まり、ひとつの批判に対し、また様々な視点からの検討が可能になる。一方で弊害もある。それは不特定多数の人に批判が受け止められ、感情的な反発を生んでしまう恐れがあること、必ずしも適当な知識を持たない人に情報が不適切な形で受け止められ、建設的な議論が難しくなってしまうことである。
 
科学の営為についての事情に通じていない人から見れば、特定の論文に対する批判的検討はある種の「攻撃」と捉えられてしまうかもしれない。もしそうなら、これは批判者への精神的反発を生みかねない。特定の悪意を持ってスキャンダラスに話題が消費されないとも限らない。また、批判者が同程度に知識をもった専門家向けに批判の内容を公開したにせよ、ネット上で公開された以上、充分にその分野に通じていない読者も存在するだろう。彼らが必ずしも適切でない理解で持って、ネット上で再批判(批判的情報の再頒布)を行った場合、不正確な情報が氾濫し、建設的な議論の妨げになる可能性がある。これはまた、論文の書き手自身に対する社会的な妨害にもなりうる。
 
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さて、このようにネット上でのいわば「ピアレビュー」は迅速性や観点の多様性といった利点もあるものの、批判に対する過剰反応や、必ずしも適切でない情報、理解の氾濫といった弊害もあることがわかった。ただ、昨今の論文捏造問題などを鑑みるに、同業者間だけに情報交換を限定すべきでなく、なるべく情報は社会に対して開かれているべきであるとの見方もあるだろう。不必要な情報統制は科学的情報の隠蔽体質を再生産することに繋がりかねない。科学研究に高い透明性が求められているのは時勢柄当然の動きであるといえる。
 
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では、ネット上でのピアレビューが有効に機能するためにはどのようなことが必要なのだろうか。
私が必要だと思うのは、ピアレビューのための「定められ」かつ「開かれた」ネット上での空間が準備されることである。例えばある研究者が名前を出して個人ブログ上で情報を発信する場合、その情報の受け取り手は不特定多数となり、誰を読者対象としているか判然としない。一方この批判に対する感情的反発も研究者個人に向けられてしまう。また、公開された情報が誤って理解され再頒布されることで、誤った情報に基づいた議論が井戸端会議的にネット上の様々なところで行われる。情報は錯綜し、建設的な議論を望む人はただ疲弊することになるかもしれない。
 
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実はこの構図は、地球温暖化に関するネット上での論争にも見られる。専門家の提示した批判的情報が、ただしい理解を伴わぬまま、不正確な情報とともにネット上で再頒布され、批判の根拠にされる。
 
一方で、インターネットという多数性が効果的に機能することもある。例えば一人ではとても精査しきれない莫大な量の情報についてその妥当性を検討する際、定められた基準が予め存在すれば、必ずしも専門家と同等の知識と経験を持っていなくても、プロと実質的に同等のレベルで情報の精査を行うことができるだろう。このようなオープンサイエンスの技法を用いることで情報の質を高めることが可能になる場合があり、海外では実際にこのような取り組みがなされた事例もある。
 
また、専門的な知識に基づく検討とは異なる文脈で、インターネットにおける情報透明性や参加者の多様性が有効に機能する場合もある。例えば、ナノテクノロジーや遺伝子組み換え技術の公共空間への応用に関して、あるいは研究継続の是非そのものについては、専門的な知識や技術だけではなく、必ずしも専門家でないひとの多様な観点からの意見、あるいは精査が必要になるだろう。
 
注意すべきことは、この場合、保障されるべき知識の質は、先ほどまで議論してきた「純科学研究」的な意味で質ではなく、社会における多様な価値観をも含めた上での質を意味するということである。つまり、求められる知識の質によって、必要となる観点、知識、経験が異なるということである。
 
開かれたピアレビューの仕組みを作る上で、このような構造的な違いを意識しながら設計することはとても重要であると思う。