aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

三橋 順子(2008)「女装と日本人」

 

女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

 

 「異性装」という言葉が気になっている。じつはツイッター上で有名らしい(?)大学生の女装家さんを知った。自分で女装をするだけでなく、女装自体を思想的にとらえようとする活動をされているようだ。とてもおもしろそうだと思った。異性装という概念は、ジェンダーを考えるうえでとても面白い視点になるのではないかとワタシも考えていた。

ジェンダー論の文脈において異性装者はトランス・ヴェスタイト(TV)ともよばれる。

ジェンダー論で論じられるTVは「異性装をすることにより満足するひと」のような定義がなされているようだ。ある種階層的である。すなわち、TVの"上位"には「異性装では満足できない」人がいるのであり、これらのひとは「異性」に「なる」ために自らの肉体の形態をかえようと試みる。このようなひとたちはトランス・セクシュアルとよばれる。一方、自らの性自認にたいして違和感を覚えているひとが、とくに「外見的な」行動を「起こさなくてもよい」人を(狭義の)トランス・ジェンダーと呼んだりするようだ。(あくまでワタシの理解の範疇による)

このようにジェンダー論的な意味での異性装者はみずからの性に対してなんらかの違和感、反発、あるいは「特定」の性へのあこがれを抱いており、これを外見を変えるという行動によって実現しようとしている人、ということになる。

一方で、たとえばMtFの人が女性的な恰好をしたいと思うことはこの意味での「女装」といえるだろうか。これを女装と呼ぶのは違和感がある。性自認が男性の人が男性的な服装を身にまとうのは、ここでいう「男装」ではないだろう。これと同じで、MtFの人が男性的な服装を身にまとうのはただ「あたりまえ」の恰好をしているだけである。

このような問題を考えるとき、ワタシの前に現れるのは、「女装」がどの視点から見たときのものであるのか、という問題である。つまり先程の例でいえば、肉体的外形が「男性」であるひとが女性的な格好をするとき、これを「女装」とよぶのは、外見的な判断である。つまり、第3者的な視点による「女装」の定義である。この場合、そのひとの性自認自体は考えられない。性自認は「見えない」からである。MtFのひとがしているのは「女装」ということになる。

一方、性自認は「男性」の人が女性的な恰好をすることを「女装」とよぶという見方もできよう。これは「自己規定」的な視点による定義ということになるだろうか。

議論をまとめるならば、「異性装」ということばの「異」をどのように解釈するかによって2つの見方ができるということである。つまり、

  • 外見的な性と「異なる」性の恰好をする
  • 性自認と「異なる」性の恰好をする

前者を判断するのは「第3者」であり、後者を判断するのは「本人」の認識である。

ところがこのような異なる意味があるにもかかわらず、「異性装」は本質的に「外見的」である。なぜならいずれの場合でも、外見をかえるということこそが「装う」という行為の本質だからである。

 

ところで、世にいる「異性装者」はすべて自分の「本来の性」を「表現」するために、(結果として)「異性装」をしているのだろうか。

それ以外に異性装への動機は存在しないのだろうか。

単純に「女装」が趣味という人もいるのではないか。読書が趣味の人がいるように女装が趣味という人がいても何らおかしくはない。そしてそのひとたちは性を「表現」するため、というよりはむしろ、「性」を「纏いたい」ために異性装をしているのではないか。ここではわたしはこれを趣味的な女装として区別してみることにする。

つまり究極的には女装には、「女でありたい」がための女装と「女になりたい」がための女装があるのではないだろうか。

趣味的な女装は「女性である」ことをまとうのではなく、「女性らしさ」をまとっているのではないか。

そもそも「○性である」ことと「○性らしいこと」はことなる。これは「男らしくない男」という言い方が存在することからもわかる。

 「男性である」ひとは女性にはなれない。むしろそのひとは「女性らしさ」を着ることを着ることを目的としているのではないか。

一方で「化粧をしないと女でなくなる」という興味深いことばを聞いたことがある。実際には「女でなくなる」ことはない。すでに「女である」からだ。しかしながら、化粧という行為は強力に「女性性」を帯びているため、化粧をしない「女性」は「女ではない」とまで(冗談であるにせよ)言われてしまう。しかしここにあっての「女でない」というのは「女性らしくない」という意味であろう。であるならば、女性の化粧という行為は「女らしさ」を身にまとうことであり、よってこれはさきほどの意味での「女装」と呼べる行為ではないだろうか。

趣味的な女装という行為は「男性の女装」のみが語られがちだが、「女性の化粧」という別の側面からも考えることができるのではないだろうか。であるならばワタシは女装と化粧を対比させながら考えていきたい。これらはコインの表と裏であり、2つを合わせて考えてこそ、異性装のもつ意義を理解できるのではないかとワタシは考えるものである。

 

ところで、個人的に憂慮していることに、「異性装」という概念は男性/女性二元論ととても親和性が高い。「異性装」を語ることは多様な性の在り方を非常に限定した形でしか表現していないことを忘れてはならないだろうと思う。たとえばMtXの人が自分の性を「表現」しようとしたとき、どのような格好をすればよいだろう。いまやあらゆる服装は「ジェンダー性」を帯びている。つまり、「男性」的か「女性的」か、あるいはその両方を「足した」ものか、である。では、「男性でも女性でもない」性「でありたい」/「になりたい」人はどのような恰好ができるだろう。ジェンダー性に引き算はできない。現実的に「男性」でも「女性」でもないことを表現するには逆説的だが「男性でも女性でもある」ことを表現する以外にないのである。ここにある種の非対称性が存在する。これは意識にとどめておくべきである。

 

そんなことを考えているうちに、大学図書館で異性装について検索してみるとこの本に出会った。外国語図書館所蔵のようである。著者自身も「女装家」だそうである。日本の女装の現状にも、著者自身の内面にもとても興味がある。

 

(考えがまだ固まっていないので論理的に問題有り。のちのち加筆する予定 2013.11.18)