科学的不確実性を前提とした公共的議論の場の必要性 まとめ
twitterに省略版を連投したのでそのまとめ。
米国・大手新聞社が読者投稿欄(web)に根拠のない地球温暖化懐疑論を載せないようにすることを決定したという記事(http://t.co/fWyE01Zvqh)を読んですこし考えたことを考えの整理の意味も込めてぽつぽつ投下
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
まず前提として、新聞社の編集者であれば、読者の投稿欄とは言えども、事実・根拠に基づいた投稿の掲載を優先するのは当然のことではある。無根拠の反社会的・人格攻撃的な投稿に限ってはfact-checkにより弾かれるとしても「検閲」とはまではいえないのではないか。
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)一方で、「事実」に基づいていないという理由で「懐疑論」を一切載せないという判断はどうだろう。ここで「事実」というのは暗黙のうちにIPCCによる知見そのものを指しているのではないか
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)根拠を示さずIPCCの知見のみを「事実」と断じる一方で、〈「事実」に反する〉という理由で懐疑論を締め出すというのは矛盾してはいないか。IPCCの知見を「根拠」を含めてきちんと報道したうえで、それに反する知見に対しても同様に「根拠」を明示した報道をすればよいだけではないか
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
今回のような問題は日本より論争がはるかに活発な米国の特殊な事情によるもので日本では起こらないというのは楽観的な予想かもしれない。私はこの背景には日本にも共通する問題があるんじゃないかと思う。
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)私が考える問題点は2つ。
1.科学的知見が「正しい」のか否かの二元的に解釈され、その知見の「(不)確実性」の度合いの理解を前提とした議論がなされにくい土壌があること。
2.実際の政策決定と市民による意思決定が不連続的で、また市民レベルの議論の場がないように思われること
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)IPCCの発表する科学的知見は「ある時点での」意思決定のためのものであり、それが「事実かどうか」「正しいかどうか」という二元的観点でのみ判断することは、複数ある科学的知見がそれぞれもつ「(不)確実性」という幅を一切無視することにつながりかねない。
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)時空間的な広がりを持つ気候変動問題に関する「ある時点での意思決定」には必然的に未知と不確実性が伴い、それゆえ意思決定者は科学的知見のもつ不確実性を前提にして議論を進めるべきではないか
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)IPCCは発表する知見の不確実性について十分とはいえないまでも自覚的であり、確実性に関する統一的な用語の使用や不確実性の明示、報告書執筆者向けの不確実性に関するガイドラインなどを策定し、報告書毎に改良が試みられている(pdf https://t.co/BzF0nABCGU
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)一方でIPCCという体制そのものについて、政治的中立性や透明性といった観点から批判も多い。
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)現実にはIPCC報告書は「事実」としてのみ報道されがちで、不確実性の存在は認識されにくい。このような状態で「事実」に反する知見が現れると、すみやかに「事実かどうか(all or nothing)」論争が勃発することになってしまう。これで得られるものは多くはない
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
ところで、この事態の原因は報道の在り方にのみあるわけではないと思う。市民の不確実性に関する「意識が低い」からだと断じると今度は良く知られた「欠如モデル」の陥穽に陥る
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)IPCCのSPMをもとに実際に政策決定を行うのはほとんど政策決定者であって、「市民」ではない。気候変動に関する市民レベルでの議論の場は少なく、市民の意思決定と政策決定の間には大きな溝がある。このような状態で科学的知見を「正しく認識せよ」というのは無茶だと思う
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)このような公共的な議論の場が必要であるだろうとはいえ、それを(しばしば政治性を帯びがちな)一新聞紙上に求めるのは難しいだろう。一方向的な議論が紛糾し収拾がつかないという(今回のような)事態も容易に想像できる。
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)2009年に世界的に実施された「地球温暖化に関する世界市民会議(WWViews)」のような公共的な議論の場が常にあるのが望ましいかもしれない。そしてそこでの意思決定と実際の政策決定が連続的なつながりをもつような具体的な仕組みが必要だろう
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)そこでは、IPCCのような国際外交交渉のための科学的知見を提供する機関とは違ったかたちの、よりローカルな規模での知見提供機関が必要になるかもしれない(終)
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
ちょうどRavetzによるcriticsたちによるblogosphereでの言論活動の評価に関する論文(essayか?)を読んだところだったのだった。
[Ravetz再訪]J.R. Ravetz(2011)‘Climategate’ and the maturing of post-normal science, Futures,Volume 43, Issue 2, pp149-157
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
Ravetzはclimategateと絡めて、人為的温暖化懐疑論者のブログ(blogosphere)上での活動を'extended peer community'として一定の評価を与えているのだが、個人的にはRavetzはweb上での言論活動を過大評価していると思う
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)意思決定にかかわる議論には研究者と市民(非専門家)の協働が不可欠だと思うが、それが実際有効に機能するためには逆説的だが「専門性」をもったファシリテーターが必要なのではないかなあ
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(承前)Facilitationの専門性というよりはもっと広範な専門性をもった人材、Collins&Evansのいう "Interactional expertise"はこのあたりの位置づけになるのかなあと思う
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
あるいは市民も一定の専門性をもつ存在であると理解するならば、専門家-非専門家間のfacilitationはむしろ専門家-専門家のそれというべきなのかもしれない(単純化しすぎかもしれないが)
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28
(自分の理解に自信はないが、増田耕一(@masuda_ko_1 )先生が「通門家」(http://t.co/eX0TtIp7ZP)というとてもよい言葉で表現されている人材のごく一側面を僕のつたない言葉で述べているだけなのかもしれない)
— chlochro (@hakkirikuro) 2013, 10月 28