aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

科学的不確実性を前提とした公共的議論の場の必要性

米国・大手新聞社が読者投稿欄に根拠のない地球温暖化懐疑論を載せないようにすることを決定したという記事を読んで考えたことのまとめ。

"米大手新聞、気候変動懐疑論は「事実誤認」と懐疑派からの投書掲載を廃止" URL http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakamegumi/20131020-00029038/

 

米国では気候変動問題に関する記事に対して、新聞紙の投稿欄(web)上ではしばしば人為的温暖化論に反対する意見が投稿されるそうだ。米国での温暖化論争は日本のそれよりもだいぶ政治色が強いといわれていて、政治的スタンスに基づくと推察される根拠の乏しい批判意見も多いらしい。

また政治的権力によって気候変動の研究者がはげしい個人的な攻撃を受けることもあるという科学者自身の告発もある。*1いわゆる「肯定派」の科学者の少数が「懐疑派」の攻撃の"矢面"に立たされるということもあるそうだ。私見だが同様の構図は日本の温暖化論争でも見られることである。

 

今回のような問題は日本より論争がはるかに活発な米国の特殊な事情によるもので日本では起こらないというのは楽観的な予想かもしれない。私はこのような背景には日本にも共通する問題があると思う。

 

米国の事情にはあまり通じてないので以下は原則日本での話に限定します。

 

背景にあると私が考える問題点は大きく2つ。

1.国際機関が発表する科学的知見が「正しい」のか否かという二元論的に解釈され、その知見の「確実性(不確実性)」の度合いの理解を前提とした意思決定者の議論がなされにくい土壌があること。

2.実際の政策決定と市民による意思決定の間に大きな溝があり、また市民レベルでの議論の場がないように思われること。

 

まず前提として、新聞社の編集者であれば、読者の投稿欄とは言えども、事実・根拠に基づいた投稿の掲載を優先するのは当然のことではある。無根拠の反社会的・人格攻撃的な投稿に限ってはfact-checkにより弾かれるとしても「検閲」とはまではいえないのではないか。

一方で、「事実」に基づいていないという理由で「懐疑論」を一切載せないという判断はどうだろう。ここで「事実」というのは暗黙のうちにIPCCによる知見そのものを指しているのではないか。

 

根拠に基づいた内容のみを報道するという新聞社が、根拠を示さずIPCCの知見のみを「事実」と断じる一方で、〈「事実」に反する〉という理由で懐疑論を締め出すというのは矛盾してはいないか。IPCCの知見を「根拠」を含めてきちんと報道したうえで、それに反する知見に対しても同様に「根拠」を明示した報道をすればよいだけではないか。

 

IPCCの発表する科学的知見は「ある時点での」意思決定のためのものであり、それが「事実かどうか」「正しいかどうか」という二元的観点でのみ判断することは、複数ある科学的知見がそれぞれもつ「(不)確実性」という幅を一切無視することにつながりかねない。時空間的な広がりを持つ気候変動問題に関する「ある時点での意思決定」には必然的に未知と不確実性が伴い、意思決定者は科学的知見のもつ不確実性を前提にして議論を進めるべきではないのか。

 

IPCCは発表する科学的知見の不確実性について(十分とはいえないまでも)自覚的であり、確実性に関する統一的な用語の使用や不確実性の明示、レポート執筆者向けの不確実性に関するガイドラインなどを策定し、報告書毎に改良が試みられている*2

 

(一方でIPCCという体制そのものについて、政治的中立性や透明性といった観点から批判もある*3。)

 

現実にはIPCC報告書は「事実」としてのみ報道されがちで、不確実性の存在は認識されにくい。このような状態で「事実」に反する知見が現れると、すみやかに「事実かどうか(all or nothing)」論争が勃発することになってしまう。これで得られるものは多くはない。

たとえば、「対立する科学的知見の根拠同士を比べてみたがIPCCのものの方が確実性が高そうだ、この不確実性を考慮したうえでリスクを回避するための対策を行うべきだろうか」、というような事前警戒的(precautionary)な、幅のあるアプローチの議論があってもよいのではないか。

 

ところでこの事態の原因は報道の在り方にのみあるわけではないと思う。市民の不確実性に関する「意識が低い」からだと断じると今度は良く知られた「欠如モデル」の陥穽に陥る。

 

結局のところIPCCのSPMをもとに実際に政策決定を行うのはほとんどの場合政策決定者であって、市民ではない。むしろIPCCの知見が用いられるのは市民の行動を「啓発」する場合がもっぱらで、気候変動に関する市民レベルでの議論の場は少なく、市民の意思決定と政策決定の間には大きな溝がある。このような状態でIPCCの知見を「正しく認識せよ」というのは無茶ではないだろうか。

 

このような公共的な議論の場が必要であるだろうとはいえ、それを(しばしば政治性を帯びがちな)一新聞紙上に求めるのは難しいだろう。一方向的な議論が紛糾し収拾がつかないという(今回のような)事態も容易に想像できる。

 

2009年に世界的に実施された「地球温暖化に関する世界市民会議(WWViews)」*4のような公共的な議論の場が常にあるのが望ましいかもしれない。そしてそこでの意思決定と実際の政策決定が連続的なつながりをもつような具体的な仕組みが必要だろう。そこでは、IPCCのような国際外交交渉のための科学的知見を提供する機関とはちがったかたちの、よりローカルな規模での知見提供機関が必要になるかもしれない。

*1:レイモンド・S・ブラッドレー,藤倉良・桂井太郎訳,2012,「地球温暖化バッシング: 懐疑論を焚きつける正体」,化学同人

 

地球温暖化バッシング: 懐疑論を焚きつける正体

地球温暖化バッシング: 懐疑論を焚きつける正体

 

 

*2:The Guidance Note for Lead Authors of the IPCC Fifth Assessment Report on Consistent Treatment of Uncertainties (注;pdf) URL https://docs.google.com/file/d/0B1gFp6Ioo3akNnNCaVpfR1dKTGM/edit

*3:ref.米本昌平,2010,"自然科学と国際政治の融合としての地球環境問題",『科学』,vol.80-12,pp1037-1043

*4:WWViews公式ホームページ URL http://wwv-japan.net/