aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

SF映画と科学技術社会

SF映画がすきで、ときどき劇場に見に行く。近未来が舞台だとなおいい。映画に出てくる未来のテクノロジーを見るのがすきだ。元来新し物好きで、古臭いのはすきじゃないから、むかしのSF映画はあまり見ない。近未来的で、スタイリッシュなテクノロジーが見たい。それを仮想的に実現してくれるのがSF映画の楽しみだ。

でもそんな映画を観終わった後に思うのは、現実の世界、つまり2014年の現在の世界の「近未来感」だ。巨大でデザイン性の高い建築物である大阪駅、大阪梅田の摩天楼、高画質なビジョン。手の中に納まるサイズのスマートフォンは、それ自体がきわめて高度な先端科学技術の結晶だ。2000年代初頭の「近未来テクノロジー」はすでにぼくの手のなかにある。ナイトショーでSF映画を観終わって、10階の映画館から大都市の夜の姿を眺めるたび、思うことは逆説的だ。ぼくはすでに「未来」に生きている。

高度に洗練された科学技術によって分単位で制御された社会的インフラにゆられながら感じるのは、この科学技術社会の〈確実さ〉だ。ぼくの知る科学技術はいろいろな〈不確実性〉を内包している。勉強していると、ときに絶望感すら味わう。にもかかわらず、ぼくが毎日生活を続けていけるのは、そしてそれがほぼ確実に保障されているのは、科学技術のおかげなのだ。

「科学技術はあれほど不確実なのに、なぜこの科学技術社会はこんなに確実なんだ?」

もちろんこの社会はそんなに「確か」じゃない。毎日どこかで、科学技術に起因する社会問題が生じている。3年前には、信じられないくらいの科学技術の不確かさを目撃した。それでも、この社会は科学技術で動いている。進んでいく。

大阪の街をたまにゆっくり社会見学する。超高層ビルを見上げる。電子端末を使いこなしながら歩く人たちを見る。制御された電車や飛行機。途切れない自動車の列。実際に科学技術で「動く」社会を自分の目で見ないと、科学技術がどれほど確実で、どれほど不確実か、簡単に見誤ってしまう気がする。

映画のなかに見る近未来のテクノロジーが実現してほしいと思う。ただそれが社会に組み込まれて、そんな状態が「ふつう」になった未来の世界がどんな〈不確実性〉をもっているか、映画の外に生きているぼくは考えざるを得ない。