aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

学校教育に社会問題の解決を託してよいか

以前web上に匿名で科学論に関する小論を投稿した。

内容は

科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程が、実は全然世間に知られてないってことが(あるいはその認識がないことが)、ニセ科学跋扈する背景にあるんじゃないか

というようなものだ(興味のある方は検索してみてください)。

ボクの立場を改めて述べると、現在の科学教育は「科学的知識」偏重で、科学という「営み」についての観点がまったく教えられないことは、科学的知識を社会的意思決定にもちいる場面で深刻な弊害を生んでいるのではないかと考えている。

そんなわけでボクは中等教育、とくに高等学校の理科という教科の内部で、あるいはそれとは独立なかたちで、「科学」そのものについて学び、考える場が必要だと主張してきた。

さきの投稿はわりと肯定的な反応を得た。科学に対するメタ的な視点の必要性は意外と共有されているようだとの実感をもった。

***

だが先日このような問題について大学の同期と話している中で、ふと、この問題を学校教育のなかで「教える」というのは結局「欠如モデル」的な解決なのではないかと考えた。

この問題に限らずとも、社会問題になにがしかの形で深くかかわっていたり、知識を相対的に多く持っている人は、「みながもっと知るべきだ」と考えがちだと思う。それを示すように「学校教育でこの問題についてもっと教えるべきだ!」という主張は分野に限らず広く見られる。だが現実的に学校教育には時間という制約が存在するため、「何を教えるべきか」というのは非常に重要な問題となる。いま学校教育で教えていることは「本来教えるべきことを限界まで削ったぎりぎりの状態」なのだ。にもかかわらず、まあボクを筆頭にいろんな人が「これは教えるべきだ!」と主張するのはなんだか現実離れした無責任な思考停止という感が否めない。「学校で教えればよい!」「これでできることはやった」「あとは知らない」というような短絡的な「解決法」になってはいないだろうか。

もちろん、刻々と変化する社会に対応する形で、「学校教育はいま何を教えるべきか」という議論が柔軟性をもってなされるのは望ましいことである。だが、学校教育を社会問題の解決の「伝家の宝刀」とすることは本当に意味のあることなのだろうか。

自省を込めてボクの議論を例に出すと、科学史や科学哲学、科学社会学などいわゆる科学技術社会論とよばれる学問の「知識」を学校教育で教えることは意義のあることだろう。だがそれは物理や化学の「知識」を教えることと何が異なるというのだろうか。「メタ知識」をいくら教えたところで、本質的な解決にはならないのではないか。

そもそも問題の性質を考えたとき、学校という場に限定する必要性があるのだろうか。もちろんいまや中等教育は義務教育といってもよい状況にあるから、ほぼすべての国民に一定の質を保った教育の場を確保できるというのは学校教育の強みである。だが、科学に関する問題は老若男女あらゆるひとにかかわる問題であり、その意味では「生涯学習」であるべき問題であるといえる。

***

このようなことを考えたとき、重要なことはSTS的な「知識」を教えることよりは科学と社会のかかわる問題について「考える」場ではないだろうか。むろん、そこにおいては基礎的な科学的知識と、基礎的な「科学」そのものの知識が必要になるだろう。だが、逆に言えば、そのような場がなければ、これらの「知識」に実際的な意義はないのではないだろうか。

それでも話を学校教育に限定するなら、そもそもの「知識」提供型の教育を再考する必要があるだろう。たとえば、「社会科」、「現代国語」、「理科」など各教科担当の教員が同時に一つの場で教育を行うような設計が望ましいかもしれない。つまり、これら教員の専門知識を組み合わせた「科学と社会」というような授業形態を作り、そこでは「知識」提供に限定しない「検討」「議論」のようなインタラクティブな「授業」が行われる。

むろん、これが有効に機能するためには教員の力量という均一化が難しい側面が存在するのは否定できない。あらゆる環境にあっても一定の授業の質が確保できるための高次の教育システムの構築が必要であることは明白である。

たとえば現在の高校における「理科」の教員は大学の教育学部あるいは理系学部出身が大半であり、「科学的知識」と「理科教育法」には習熟していても、「科学という営み」について十分に理解しているとはかぎらない。なぜなら実際に科学の裏側で活動しているのは一部の研究者志望の学生にかぎられているからである。博士号教員という試みも一部でなされているが、現状ではどうしても「研究職につくことができなかった人材」の活用にならざるをえない。そもそも博士号とは科学研究の後継者育成システムの一部なのであるから当然である。であれば後継者育成とは違った目的で科学という営みと、科学と社会の界面で起こる諸問題に深く通暁した人材を育成できないだろうか。このような人材が一定数教育現場に必要なのではないだろうか。

さてこのような授業形態がもし実現可能であったとして、ではそこで「なにを学ぶのか」というのは再び議論すべきことであろう。「科学と社会」の問題に重要性で劣らない問題は多く存在するはずだからだ。だがいずれにしても、このような形態の「授業」の必要性という意味では意見は一致するのではないか。

***

そしてこれは学校教育という形に限定されないことも明らかである。むしろこのような「場」が学校以外にも存在することこそ社会にとって大きな意義があるとボクは考える。

「欠如モデル」という考えかたと対置される考え方として科学的知識の「文脈モデル」というものがある。ボク自身「文脈モデル」を十分に理解しているとは言い難いが、「文脈モデル」が機能するには当該人が必要とするものことにfitするように双方向的な科学的知識の情報交換が必要だ。むろん、教育とコミュニケーションは異なる。特性も、必要とされるものも異なるだろう。だが、殊「科学と社会」の問題に関しては、これまでの「教育」的なスタイルでは不十分ではないか。むしろ、討議の場に教育的効果を付加していける設計の方が適しているのではないだろうか。

社会人の「生涯学習」というと、なんだが牧歌的で非現実的なお膳立てのような印象さえ受けてしまうが、「stakeholder間のdecision-makingのための知識共有化」といえばなんだがぐっと現実的なものに聞こえないだろうか。むしろその必要性は増大しているようにさえ思う。

***

 結局のところいまは、現状の社会問題の解決には社会の改革が必要だがそれは難しく実現可能性が低いから学校教育を変革しよう、というような、安易で短絡的な「教育改革」の議論が多いように思う。このような「学校教育」信奉をなんと呼べばよいのかボクは知らない。「学校教育決定主義」とでも呼べばよいのだろうか。

だがそのような短期的な視点でもって無計画に行われる「教育改革」にふりまわされるのはほかでもない教育現場の生徒と教員なのである。だからこそ、社会問題の解決を安易に学校教育改革に求めるべきではない。それについての議論は慎重に、長期的な視点に立ったものであるべきである。

ボク自身も、学校教育については常にこのことを念頭に置いたうえで論じるべきだと改めて考えた。