aida ha nani de dekiteiru ?

〈いかにしてワタシはこの本に出会ったか〉についての記録

その'女性'を見ているのはだれか ―― 「見る/見せる/見られる」をめぐるヘゲモニー

***
 
f:id:hakkirikuro:20140816201416j:plain
 
***

 無性に美術館に行きたくなって、国立国際美術館で開かれている「ノスタルジー&ファンタジー」展*1を見てきた。美術自体にほとんど知識はないし、まったく予習もしていかなかったので、完全に無知状態。美術館に着いたのはすでに閉館2時間前で、本当は常設展も見るつもりだったが時間が足りなさそうだったので、この企画展をじっくり見ることにした。現代美術に関しては右も左もわからないから、作品を凝視つつ、ひっしで場内の解説を読んだり、あとは展示の方法とか、ほかのお客さんの動線を観察したりしていた。

 この企画展には10人の作家さんの作品が展示されている。なかでも橋爪彩(さい)さんという方の作品がすごく気になった。橋爪さんの作品は企画展のポスターにも採用されている。とてもきれいな作品だ。

 ずぶの素人があんまりてきとーなことを書くのは失礼になるのだと思うけれど、展示作品を見て感じたり考えたことを、直接作品とは関係ないがぼくがすこしまえから考えていたこともあわせて、すこし発展させて書いてみる。専門的なことは当然わからないので作品自体の評価とかはしません(てかできません)。展示作品の一部は橋爪さんのwebサイトで見ることができる*2*3

 

***

 まずはじめに極めて素朴な印象を述べる。どれもすごくきれいな絵だと思った。ほとんどの絵には女性と思われる人物が描かれていて、肌は陶器みたいに白くてなめらかだけど、本物の皮膚みたいにぴんと張ってる感じ。それから、全ての絵にはなんらかの女性性の表象が見て取れた。おそらく妊娠しているのであろう女性、リップを塗ったくちびる、ハイヒール、アクセサリー、乳房、身体のラインを強調する服など。わかりやすい女性性のイコン。女性性がキーコンセプトなのかなと思った。会場にあった説明書きによれば歴史的に有名な絵画の構図を引用して、現代の若い女性に置き換える手法を得意にされているそうだ。だからノスタルジーなのかな、と素人的連想。ところが情けないことにその元ネタがあんまりわからない…。いやいくつかは見たことのある構図で想像がついたんだけど…。絵はすごく写実的で、本当に写真のようだと思った。

 

***

14点の展示作品のなかに、ひとつ、ぼくにとって非常に印象的な作品があった。innocenece, ignore and insanity (2013)。どこか部屋の中、女性性の表象を伴ったひとりの人物の半身が描かれている。正面を向いているが、白い布に覆われて顔が隠されている*4。ちょうど顔と同じ高さには、部屋の照明のスイッチと思われるものが平行に並んでいる。この作品を見たとき、ぼくは瞬間的に平野啓一郎さんの「私とは何か」*5という新書に書かれていた話を思い出して、しばらくそのことしか考えられなかった。この本には、顔を隠した女性の写真の話が出てくる。

 

***

著書「私とは何か」のなかで、平野さんは最初に「分人」という概念を紹介する。この本の主題でもあるこの「分人 dividual」とは「個人 individual」の対となるような概念だ。ふつう、ひとの単位は「個人」だ。コミュニティとか社会とか、そういうものは「個人」の集合だ。多くの物質の、物質としての最小単位が「分子」であるように、ひとも「個人」よりちいさく分けると、それはもうひとではなくなってしまう。そしてこの「個人」というひとの最小単位は自己認識の最小単位でもある。自己同一性ということばがあるが、「自分」は、時間的に連続していて、そして単一なものだ、と考えられている。「個人」とは、肉体的にも、自己意識も、単一である存在の、最小単位なのだ。

「本当の私」。「うらおもてのあるひと」。こういったひとの内面の性質を表す一般的な考えは、どちらも《いつもはとりつくろっているけど、本当の私はこんなひとなんです》《あのひとほかの人の前ではああだけど裏ではひどい態度だよ、えー本当はそんななんだ》みたいな感じで、取り繕った偽物のなかに、一つだけ本物のその人がいる、というイメージが前提にされている。「分人」という考え方はこれとはちがう。ひとはほかのひとやものと関わるとき、異なる自分をみせるものだ。Aさんといっしょにいるときの自分と、Bさんといっしょにいるときの自分は、なんだか違うような気がする。「個人」主義の考え方なら、そのうちのどちらかが本物、あるいはどちらもとりつくろったフェイクの自分だ。「分人」とはAさんといるときの自分であり、Bさんといるときの自分である。つまり「分人」主義とは、だれかやなにかと関係するという状況における、「その」自分を最小単位にすることを認めるという考え方だ。おもてとうらは、たったひとつのコインのふたつの側面ではなく、それぞれ2つとも自分自身なのだ。まあ「分人」ってこんな感じ。

けっこう長くなってしまった。詳しくは平野さんの御著書を読んでください。とてもいい本です。

 

***

 このエッセイの鍵となる「分人」という概念について説明したところで、本題に入る。

 かつてインターネット空間には、「匿名」の画像投稿サイトが無数にあった。そこでは、ほとんどのユーザーは固有名を持たない。「自分」を示す情報はない。だから、そこに投稿されたものが「だれ」によって投稿されたものなのか、誰にもわからない。同じ人が投稿したものでも、それが同一人物の投稿であると分かるのは投稿者だけだ。そこには「自分」の投稿があるが、ほかのだれも、「自分」だとわからない。この意味で匿名的だった。

このようなタイプの匿名サイトはもちろん今も多いが、現代のネットでは、SNSが画像投稿サイトを兼ねるようになりつつある。SNSはそれまでの意味で匿名的ではない。SNSのなかで、ユーザーは、ほかのユーザーとは区別できる存在だ。ひとりひとりにユーザー名とアカウントがあるため、投稿は帰属性を持ち、時間的連続性を持っているから、「おなじ」ユーザーの投稿をたどって見ることができる。蓄積される投稿は姿の見えないネット上での擬似的な人格を形成する。ほかのユーザーはこの蓄積から、顔も名前も知らないこのアカウントをほかのだれかと区別し、「あなた」と認識することができる。このような、自分がどこの何者なのかは秘匿しつつ、疑似的な「自分」を他者が認識できるという性質は「半匿名」的だといえるだろう。

そんな「半匿名」サイト上で、自分をスマフォのカメラで撮って、そのスマフォを使ってネットにアップロードしているひとたちがいる。時には下着姿や裸体であったりもする。女性も少なくない。そして、彼女たちの写真にはひとつの特徴があると平野さんは指摘する。「顔」が隠されているのだ。否、彼女たちは自分で顔を隠している。顔だけ塗りつぶす、顔が入らないようにトリミングする、顔がうつらない構図で写真を撮る。現代ではこれらは特別な技術や装置なしで簡単に行えてしまう。すべてスマフォで簡単に行える。従来の匿名サイトではたとえ自分の画像を投稿したとしても、それは見る者にとって「どこかのだれか」の写真にすぎなかった。一方SNSでは、写真を投稿することによってほかのひととは区別できる疑似的な「自分」を見せることができる。その投稿に対する反応はほかのだれでもなく「自分」に向けられたものだとはっきり思うことができる。「半匿名」という性質のために、SNSでは「自分」を明らかにせずとも、投稿に対するほかのユーザーの反応を「自分」のものにすることができるのだ。

 ところで、この見られている「自分」とはだれなのだろうか。もちろん、それはSNS上の「分人」にほかならない。SNSでは、見せる自分を、つまり見せる「分人」を恣意的に選び分けることができる。なぜなら、彼女たちは「顔」を隠しているからだ。平野さんは、「顔」こそ、ひとつではない「分人」を統合するものだと指摘している。現実世界で、さまざまな分人をもつひとが、ひとりの「その」ひととして認識されるのは、「顔」が同一だからだ。逆に言えば、「顔」さえ隠せば、ひとはいろんな分人として生きることができる。SNSでなら、その自由に選ばれた「分人」たちをユーザーアカウントという疑似的な「顔」によって再統合することができる。SNSでは他者からの「自己承認」を得ることすら可能になる。つまり、彼女たちにとって、SNSは自由に「自分」を見せる/見られることを可能にする装置なのである。彼女たちを「見る」者は、じつは、彼女たちの望まない「分人」を見てはいないのだ。

この、「見る」という行為は、見られている人自身が「見られる」ことを許可しており、「見せる」ことを望んだ結果なのだ、という発想の転換がこのエッセイの主題である。見る/見せる/見られるという行為のあいだの関係性を、「顔」のない人物の写真から考えてみたい。ぼくにとって、SNSに投稿される写真と橋爪さんの作品を結びつけたのが、最初に述べた innocenece, ignore and insanity だった。

 

***

そろそろ絵の話に移ろう。女性性を身にまとった今風の、顔を隠した人物と、顔の高さに平行に並ぶ照明のスイッチの絵。そのひとはまっすぐ正面を向いていて緊張はないように見える。ぼくは、その人物が「自分」を'見せている'のではないかと考えた。ぼくはそのひとを見ているのだけど、それは「見る」ことを許されているからにすぎない。なぜなら、そのひとのそばには照明のスイッチがあって、この人がそうしようと思いさえすれば右腕を伸ばしてすぐに照明を消すことができるはずだからだ。照明の消されたまっくらな部屋のなかでは「見る」ことは拒絶される。さらに、この人物は自分の顔を覆っている布を取ろうとはしない。ぼくにはそのひとの「顔」を見ることが許されていないのだ。ぼくはそのひとの「顔」を知らないから、そのひとが一度照明を消してしまったら、ふたたび照明が灯ったときに、そこにいるひとがさっきのそこにいたひとと「同じ」ひとであることを確かめることができない。そのことをぼくに教えることができるのはそのひとだけなのであり、この点でぼくは、「そのひとを」見ることの主導権すらもうばわれているのだ。

 

***

 そもそも、なぜ「顔」こそが「分人」を統合する力をもつことができるのか。それは「顔」が肉体のなかでもっとも複雑で、それゆえに差異の際立つ部分だからだ。肉体のほかの部分とは違って、「顔」は狭い面積でありながらきわめて多くのパーツによって構成されている。ひとつひとつのパーツと微妙な配置によってうみだされる無限の多様性に特徴づけられる「顔」こそが、われわれ人間のあいだで解読される強力な固有コードになる。

ここで、橋爪彩さんの作品の重要な共通点に触れておこう。作品の中に描かれる人物の目が描かれていないのだ。残念ながらぼくは橋爪さんの作品のすべてを存じ上げないので、これが本当に全作品についていえるのかはわからないが、少なくとも今回の展示作品についていえば、そのパターンはみっつある。(1)そもそも「顔」(目付近)が入らない構図をとっている。(2)髪で隠れている。(3)布などで顔が覆われている。件の絵はこの(3)のパターンである。

「顔」を隠すことと目を隠すことは同一視されることが多い。しばしば「顔」を隠すことを簡略化した形として、目付近のみを隠すことがある。そしてこれはまた、SNSでも「顔」を隠すのによく用いられる手法だと思う。つまり目を隠すことで、「顔」を隠すことと疑似的に同じ効果を得ることができると考えられている。絵のなかに描かれた目を隠した人物は、ぼくには顔を隠そうとするSNS上のひとびとと見事に重なって見えた。つまりぼくがこれらの絵の中に「見ている」人物たちは、みな「分人」であろうとしている、「分人主義者 dividualist」であると考えられないだろうか。

 SNSはネット上での「人間関係」そのものである。SNS上でユーザーはほかのユーザーとの関係性を深化させたり、あるいは新たな関係性を創出することを日々楽しんでいる。そうでなくても、SNSというネットワークにアカウントを持つ限り、人間関係の構成者であることは避けられない。SNSがいわゆる〈現実世界〉と最も異なるのは、そこに「肉体性」が存在しないことだ。そしてこれはSNSが「分人」的だということでもある。どういうことか。〈現実世界〉の「肉体性」は、ひとに絶対的な「単一性」を与える。「分人」主義の考え方では、「私」とはいくつもの「分人」、そのひとつひとつのことだ。しかしながら、ほかのひとが見る「私」とは、単一の「その」私でしかない。なぜならそのひとが見ているのは「分人」ではなく、ただひとつの肉体だからだ。ゆえに肉体は「分人」に絶対的な「単一性」を課し、「分人」をひとりのひととして統合する。そしてその肉体においてもっとも単一的なものこそが「顔」なのである。

 一方、SNS上の「自分」に肉体性はない。SNSでは、ほかのユーザーとの交流が投稿という形でアカウントに帰属され、蓄積していくが、それは同時に、ある人物との関係のなかにおける「自分」=「分人」を自分や他のだれかにたいして可視化するということでもある。つまりSNS上でだれかが見ることができる「自分」は、まさに複数の「分人」が同時に重なり合っている存在である。重ねて重要なのは、SNSでは「分人」を自分自身の目で見ることができるために、「分人」であるSNS上の「自分」を恣意的に操作することができるようになることにある。ゆえに、SNSでは理想の「分人」でいられるのだ。

 「顔」を隠すことで、ひとは複数の「分人」でいることができる。だが、この複数性ゆえに、ひとは「この自分」を見せることができない。ばらばらの分人を見せることができても、それらがおなじ、この「自分」を見られていると実感することができないからだ。もし、「分人」のままでありつつ、ほかのだれでもない「この自分」を見せたいとしたら、どうすればよいのだろうか。ここに、分人と肉体の、複数性と単一性というアンビバレントな関係がある。「顔」を隠すことで、ひとは単一性から逃れ、恣意的な複数の「分人」でいることができる。しかしその複数の「分人」が同じ「この自分」であることを自ら証明しなければ、「自分」を見てもらうことはできない。そしてその証明には、肉体のもつ「単一性」が必要だ。

 だからこそ、ひとびとは「顔」の見えないSNS上で、自分の「肉体」の一部分を写真で切り取り提示してみせる。それは「見せる」ことの主導権の行使でありながら、同時に恣意的な「分人」の重なりであるSNS上のアカウントがまぎれもなく「この自分」であることを証明することで、「自分を」見せることを許可するために必要な、'能動的な'行動でもあるのだ。

 この企画展のポスター*6に使われている作品 Chloris (2011) には、完全な「顔」も完全な「肉体」も描かれていない。くちびるにグロスをぬり、エロチックなポーズをとるこの人物はあきらかにだれかに「見られて」いることを知っている。しかし、もし、このひとを見ているはずのだれかが、このひと自身に「見る」ことを許されているだけだとしたら?そして、この極めて限定化されたフレームのみが、その誰かにいま許されているすべてだとしたら?こう仮定した時、ぼくはその人物と視覚を共有することになる。なぜなら、美術館で、あるいはポスターのなかにこの絵を見ているぼくには、まさにこの絵に描かれていることしか、「見る」ことを許されていないからである。

 

***

さて、これまで徹底して、「見られる/見せる」'女性'についてぼくの勝手な妄想*7を進めてきたので、今度は「見る」'女性'について考えたいと思う。この企画展に出展された橋爪さんの作品の中で、明確に「見る」人物が描かれているのは一点だけである。これはぼくにも元ネタがわかった。カラヴァッジオ*8の「ナルキッソス」だ*9。まあ、というか、作品名が Narcissus (2013) である。水鏡にうつる自分の姿を食い入るように「見る」現代の若者。この人物も女性性の表象がまとっている。あたりまえだけど、元ネタであるナルキッソスは美少年だ。

ナルキッソスを模したこの人物の特異さは、「見る」という行為のみを行っているのがこのひとのほかにいないという点にある。前傾姿勢であきらかに水鏡に見入っているこの人物は、まさに「見る」という役割を持たされた人物であるようにぼくには見えた。では、このひとが見ているものはいったいなにか。ギリシャ神話のナルキッソスにならうなら、やはり水鏡にうつった「自分」の姿ということになるだろう。ナルキッソスは【神】から自分しか愛すことができないさだめを受けた。彼は水鏡に映る自分の姿に恋をし、その場を離れることができなくなって哀れな最期を遂げた。では作品中の人物も、水の鏡に映った「自分」のことが大好きでたまらなくて、だから必死で水を見つめているのだろうか。まあ、ふつうに考えればそうだと思う。ナルキッソスはナルシシズム/自己愛の語源である。描かれたこの人物はナルシシズムの体現者なのだから。

 ここで、極めて興味深いナルシシズム/自己愛の対称性に気付く。ナルキッソスを模したこの人物は「自分」の姿を「見て」いるがためにナルシストと呼ばれる。一方、ぼくの理解では、現代のナルシストという言葉はむしろ「自分」の姿を他人に「見せる」ひとを指すのに使われているように思う。なにより、SNSで「自分」の姿を自分で撮ってその写真を執拗に投稿する、そんなユーザーを揶揄するためにナルシストという語が使われたりする。しかしこの対称性とは裏腹に、自分の「顔」を隠し、「分人」である「自分を」「見る」ことを自ら他者に許すことで「見られる」ことを実現しているほかの絵のなかの人物たちから受ける満足げな印象とは違って、「自分」をひたすら「見ている」この人物からはむしろ必死さや哀れさを感じてしまう。

 正直なところ、ぼくにはむしろ、この人物が必死で「自分」の姿を探しているように見えてならなかった。水の鏡に映っているのはまぎれもなく「自分」だっただろう。鏡はそのままの姿だけを映す。しかしおそらくこの人物にとって見たかったのはそんなものではなかったのではないだろうか。このひとが鏡の中に「見て」いたのは「本当の自分ではない自分」だったのではないか。《こんな自分は本当の自分ではない、本当の自分はどこかにいるはずだ》。この人物は「ほんとうの自分」を信じ、懸命に探し求めている点でナルシシズムを体現しているといえると思う。加えてこの人物は「個人主義者 individualist」としての役割を担わされていると考えてみるのは、どうだろう。これだとこのひとがかわいそうすぎるだろうか。

 

***

「見る」女性についてはもうすこし続きがある。展示されている絵に描かれている人物の多くはこちらのほう、つまり真正面をむいているか、顔をこちらの方に向けている*10。いわゆるカメラ目線だ。映画論の講義で習ったのだが、映画物語論ではカメラ目線は指呼詞とよばれるらしい。指呼詞とは、ディスクール空間において語り手の存在を暗示するもののことだ*11。語り手とはここでは描かれている光景を「見ている」存在のことで、つまり、カメラ目線はその目線の先に「見ている」だれか/なにかがいる/あることを示している。当然、このひとたちは「見られて」いることを知っていることになる。裏を返せばこのひとたちもまた、「見ている」'女性'なのだ。しかしさきほどの哀れな人物とはちがって、このひとたちが見ているのは、「自分」を「見ている」だれかである。

 SNSの特徴のひとつは、「見ている」ひともまた、だれかが「見せて」いる「分人」だということだ。匿名サイトとはちがって、SNS上では「見せる」ひとも「見る」ひとも匿名のだれかではなく、半匿名の「自分」をもつひとだ。だからこそ、「見るだれか」も「見られる自分」になる。この見る/見せる/見られるのあいだの奇妙な反射性をつくりだすのがSNSという空間である。とすれば、SNSの登場と普及は、現代の見る/見せる/見られるの関係をこれまでとは異質なものにかえつつあるのではないだろうか。作品に登場する現代女性は、この変化しつつある現代的な見る/見せる/見られるという行為の体現者であるとは考えられないだろうか。

 

***

ここでようやく、ぼくがこのエッセイの表題にした、ひとつのささいな疑問について考えてみる。作品に描かれている人物たちを「見て」いるのはだれか。これまで考えてきたことによれば、「見る」ひとは「見られ」ているひとに「見る」ことを許可されている。「見る」ことの主導権をもっていない者だ。橋爪さんの作品には明らかに写真を模したと思われるものがある。つまり見ているのは、その写真の撮影者であるか、あるいはその写真を見ているひとだ。いずれにせよ、彼らには「撮る」ことの主導権も「見る」ことの主導権もない。この視点は、SNSのユーザーであるぼくの視点でもある。ぼくがSNSで見るほかのユーザーの写真はそのひとが見せることを望んだものでしかない。そしてすでに指摘したように、それはまた、美術館で絵の前に立つぼくの視点でもある。では、作品のなかの人物を見ているのは「ぼく」なのか。こんな自明的で残念な結論ではなにも面白くないので、どうせならもっと妄想を広げてみよう。そのために、ぼくはここでもういちど、ナルシシズムの対称性を持ち出すことにしよう。対比させるのはふたつの作品。Narcissus (2013) と Venus (2012-13) だ。

ナルキッソスを模した人物は水鏡を見ていると書いた。鏡はありのままを映す。そこにはなんの恣意性も介入できず、映るのは「顔」のある、「分人」ではないそのままの自分だ。「個人主義者 individualist」であるこの人物は、このそのままの自分を受け入れることができないでいる。

この作品の向かい側には、もうひとつの象徴的な絵が展示されている。Venusと題されたこの作品に描かれている人物は、かつて描かれたヴィーナスと似たポージングをしている*12。やはり「顔」は描かれておらず、「分人」であることが示唆される。この人物は「見られ」ていることを知っているが、正面を向くこの人物もまた、見ているだれか=つまりぼく、を「見て」いる。このひとはきっと、ぼくがこのひとをどう見ているかを見ているのだろう。つまりこの人物は、ぼくを通して、みずからの「分人」を「見て」いる。もしかしてこの人物は、見たい「自分」を「見る」ために、「自分」をぼくに「見せ」ているのではないか。言い換えるなら、この人物は、ぼくという「鏡」を見ている。 しかしその鏡にうつるのは、そのままの「自分」ではない。自分がみたい「自分」なのだ。だから、ヴィーナスを模したこの人物は、ナルキッソスを模したあの人物とは対照的に、見るものに満足げな印象を与える。この女性を見ているのはだれか――それはほかならぬこのひと自身である。というのはあまりに倒錯した見方だろうか。

Narcissus に描かれた人物とは、「個人」主義にとらわれて「本当の自分」を探し求め、悩み苦しむ現代人そのものではないだろうか。「分人」でありつつも「自分」を「見せる」ことに成功し満足するほかの人物たちとは対照的に、「自分」を「見る」ことに必死になっているこの人物が、しかし Narcissus の名をただひとり課されているという非対称性に気付くとき、ぼくはこの人物にいっそうの哀しみを感じずにはいられないのである。

 

***

実はこの二つの作品を対比させることにはもう一つの意味がある。それは「見る」ことのヘゲモニーの転換を示唆するものかもしれない。

Narcissus における構図はカラヴァッジオからの引用であると考えられる。ナルキッソスを模したその人物は、前かがみで水鏡を見下ろしている。ここで、見る/見られることの位置関係を考えてみよう。Narcissus において「見る」側は上に、「見られる」側は下に位置する。もちろん鏡であるゆえに、「見る」者もまた、下から「見上げられ」ている。つまり、この作品において、「見る」者は常に「見られる」者の上位にある。一方、Venus における「見る」者と「見られる」者の位置関係は水平的で対面的なもので、そこに上下関係はない。さらにすでに述べたように、Venus において、「見る」ことと「見られる」ことは、「見せる」ことを媒介として相互に複雑な反射性をもっている。

従来、「見る」ことの特権は当然に「見る」者にあった。「見る」者は「見られる」者の権利を搾取し、つねに「見る」ことについて優位にあった。ところが現代では、この見る/見られるの権力関係は変化しつつあるかもしれない。SNSにおいて、「見る」ことは「見られる」者による「見せる」権利の行使の結果に過ぎない。それどころか、「見て」いると思っている者がじつは「鏡」として、「見られて」いるはずのひとの「見る」行為のために利用されているかもしれない。ITの発展は「見せる」という行為を容易にした。これは「見る」者の優位性を減じ、「見る」ことのヘゲモニーを転換させつつあるといえるのではないだろうか。

さらにいえば、伝統的に、「見る」行為は男性的なものであり、「見られる」のは女性だった。「見られる」女性の権利は搾取され、男性的権力*13は彼女たちを「見る」ことの権利を独占してきた。現代においてさえも、《女性を見るのは男性である》という根強い考えが残っている。さまざまなメディアのなかで、いまでも、性別を問わず多くのひとびとが男性的権力に「見る/見られる/見せる」ことの権利を搾取され、「見る」ことの一方的な暴力性にさらされている。SNSの登場と普及は、この「見る」ことのヘゲモニーの構造を変えることができるだろうか。「顔」を隠し「自分」を「見せる」’女性’の登場は、もしかしたら、その萌芽であるといえるのではだろうか。

 

***

 ところで、ぼくはこれまで垂れ流してきたこの冗長な妄想のなかで、作品のなかの人物の性別について、特定するような記述を避けるように気を付けてきたつもりである。最初作品を見たとき、女性性の表象が過剰だと思った。ぼくには描かれている人物たちはみな身体に女性的な特徴を備えているように見えたが、このひとたちはさらに強力な女性性を帯びたイコンをそれぞれ纏っていた。女性性の重ね塗りのような、いささか過剰とも思える表現に多少の違和感を覚えた。まさか、ぼくは「女性」を「見せられて」いるのではないか。もはや性別すらも、「見せる」ことを許されたにすぎないのではないか。とすれば、「女性」を「見る」ということの主導権さえも、もはや「見る」側にはないのではないか。そんな気さえするのである。

 

***

最後に、もうこれだけ妄想を書き連ねたのだからあと一つくらい書き添えてもいいだろうと開き直ることにして、ぼくが勝手に想像したことを書く。

 作者は写真と見違えるほどに写実的な絵を描く。作品のなかにはむしろ、'写真の絵'を描いているのではないかと思わせるものもあった。写真と絵の違いは、写真が世界を機械的に客観的に切り取るのに対して、絵に描かれた世界は必然的に作者の主観的な再構成であるとか、まあよく聞く*14。絵であるという事実は、作者の主観性を必然的に示唆する。ということはこの写真のように見える絵のなかの世界もすべて作者によって創造=再構成されたものであるわけで、一義的な視点として作者の目を想定しなければならない。作者の目が見つめているのはルネサンスバロックの画家の描いた絵であり、現代の社会の様相とそこに生きる女性たちでもある。この時間を超越する【神】のごとき視点こそ、作品のなかの人物たちを「見る」者の正体であり、その女性を見ているのは――ほかならぬ「作者」である、というオチを思いついたのだが、もうこのへんにしておく*15

 

***

*1:「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」展  2014年5月27日(火)-9月15日(月・祝)

国立国際美術館 http://www.nmao.go.jp/exhibition/

*2:橋爪 彩 | SAI HASHIZUME

*3:どれかは言わない方がいいのかな?展覧会にもネタバレとかあるのか?

*4:後で調べたら、白い布で顔を覆う絵はルネ・マグリットの絵の引用だとか。たしかに、この作品の隣に展示されていた絵は同じく白い布で顔が覆われており、マグリットの「恋人たち」という作品の構図に似ています。この絵の構図もマグリットの作品の引用なのかもしれません(ぼくには特定できませんでした)。マグリットの作品って、たぶん高校の美術の教科書で見たことあるんですが、作者についてはよく知りませんでした。いちおう高校では美術を選択してて、2年間授業受けてたはずなんですが…。

*5:

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 この本は良い本だからぜひ読むといいと思う。へたな自己啓発本やなんとかセラピーの本よりよっぽどおすすめ。

*6:ところで、ぼくはこの作品に惹かれて企画展を見たようなところがあるのですが、この展覧会の企画者の方がどうしてこの作品を選ばれたのかはとても気になります。どういう意図があるんだろう、とか。

*7:思った以上に気持ち悪くなってしまって自分でもすごい引いてる。

*8:ぶっちゃけ元ネタがこの絵であることだけはわかったが、書いた作家の名前は知らなかったのでさっきwikipediaで調べた。そもそもぼくがこの絵を初めて知ったのはwikipediaです。ごめんなさい。

*9:ウィキメディアのリンクを貼っておきます。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Narcissus-Caravaggio_(1594-96)_edited.jpg

*10:重大な例外が2つある。Toilettes des Filles と題される連作。この作品のなかで描かれている2人の人物はむしろ自分たちの世界に夢中であるように見える。このひとたちからは「自分たち」を「見せよう」という欲求をまったく感じ取れなかった。むしろこのふたりで閉じちゃってる感じ。この絵を見る人は「覗いている」感覚になると思う。つまり、「見る」ことを許可されていないのに、「見て」いるわけだ。まあいろんな意味でとても興味を引く作品だと思うんだけど、今回はちょっと例外にしちゃう。ごめんなさい。

*11:間違ってたらすみません。全部ぼくのせいで、先生のせいではないです。

*12:ちょっと自信はないが、この作品が引用しているのはサンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」の構図であるような気がする。ちがうかも。

*13:センシティブな問題なのですが、男性的権力の主体は必ずしも男性だけではないと思いますし、男性がみな男性的権力の主体であるとは思ってません。

*14:正直これは完全に知ったかです。

*15:もちろんこのエッセイの目的は、作者が意図しているのはこういうことなのだ!(ドヤァ)とかこういう風に見るのが正しい(ビシッ)などということを主張するためのものではありません。むしろ積極的に誤読しにいきました(すみません)。念のため。実際に見に行かれて、ぜんぜんちゃうやんけってなるかもしれないです。ぜひ行ってみるといいと思います。ちなみにいまのところぼくは2回行きました。