村田純一(2009)「技術の哲学」
「科学技術」という語はよく考えると複雑な概念だ。
文字通り、この語は「科学」と「技術」の複合形である。
これまで読んできた本のなかでも、この語の取り扱いについて"註"がつけられていたものは多い。素朴には、「科学」と「技術」はちがうもののような感じがする。一方で、現代社会においてはこれらはもはや完全に分けることはできないので、「科学技術」としてまとめて考える、ということにしてワタシはこれまでこのふたつの「違い」について深く考えることを避けてきた。
しかし最近、この二つの概念について、個人的な理解として、なんらかのけじめをつけておきたいと思うことがあった。
それというのは、PNSの有名なダイアグラムをながめていて、ふと、なぜこのスキームには「テクノロジー」が明示的に出てこないのだろうと疑問に思ったことに始まる。
PNSスキームというのは、いわゆる社会問題を解決する際における「科学」の様相を説明する図であるとワタシは理解している。しかし社会問題と「科学」がからむとき、そこには必ず「技術」があるではないか。
それを裏付けるように、
テクノロジーアセスメント
テクノクラシー
などという言葉が「科学」の文脈で出てくるのである。
では、実際的な問題は「技術」のほうにあるのだろうか。ならばなぜ「科学」ばかりが問題にされるのか。
さらに加えると、RavetzがProfessional Consultancyとして挙げる代表的な二つの例は外科医と熟練した技術者である。これらはともに、「科学的知識」とともに、教科書的な事例から逸脱した現実的な事態に"臨機応変"に対応する「技能」を持つ職業である。これはある意味で「技術者」と呼べるかもしれない。このような専門知の形態を考えて、Professional Consultancyは暗示的に「技術」の存在を内包しているといえるのだろうか。
そもそも、「科学」と「技術」の違いとは何か。完全に峻別できないとしても、なんらかの性質によるコントラストは存在するのではないか。
「科学」についてはとりあえずの理解はある(ワタシ自身「理学部」の学生であるから)。「技術」について知らねばならない。そんなわけでワタシは図書館でこの本を選んだ。